紺色の小箱

モクジ
達して落ちる、その瞬間が好きだ。
激情のまま、どこまでもはじけて飛んで、白々しいほどの冷静さを持った二人の人間に戻る前の、そのほんの一瞬。
(ああ、あれはまるであの世のとこの世との狭間だな)、と樹は思う。まさにその狭間へと向かいつつある腹の上の若い恋人の健康的な腰を、樹は細い二本の脚で自分の方へと引き付けた。ぴったりと合わさった二人の身体の間を、ずるり、と熱い液体がこぼれ落ちる。
「樹さん…」
 黒い髪に汗が滲んで束になって、額に落ちている。三十路にはもうすこしという若い男が欲情して、端正な顔を歪ませる様はとても好ましい、と樹は思った。
「いくの?」
 恋人の顔を見上げながら樹が聞くと、「樹さんの中が熱すぎて。…だめ、ですか?」と余裕をなくした声色の囁きがかえってきた。
 樹はくすり、と笑い「いいよ」と許してやった。
「ああ」と大きなため息をついて、男は奥へ奥へと何度も激しく動き始めた。
 ――狭間へは、もう少し。あとは甘く痺れ始めた身体を男のリズムに任せるだけだ。
 やがてびくりびくりと震えながら恋人は達し、樹も、はじけ飛んだ。
 しばらくそのあと二人で抱き合っていたが、やがてくったりとした男が樹の腹の上に落ちてきて、そして一度キスをして二人は身体を離した。
 恋人はいつものようにベッドサイドの煙草に手を伸ばし、火を付けた。白い煙がゆらゆらと天井へと舞い上がる。樹は煙の行く先を黙って見つめていた。
行為の後、普通ならば、こうやって男の煙草の煙を見ながらいつの間にか深く眠ってしまうのに、今日は何かが気になって眠りへと落ちていくことができずにいた。しばらくそうやって白い煙の先を眺めていたが、やがて一つの違和感に思い至った。
「…その煙草」
「え?煙草?煙草がどうかしましたか?」
 不思議そうな顔をした恋人が樹の方に横顔を向ける。
「それ、いつものと違う?」
「え、ああ。これ、ですか。たまには別なのもいいかなと思って買ったんですけども。それにしても樹さん、よく気がつきましたね?」
 男は煙草の箱を樹の方へ見せながら言った。深い紺色をした小箱は、昔から変わらないクラシカルなデザインだ。味わいが濃くて深い、通好みの古い銘柄の煙草だった。
「それ、一本頂戴」
「これ、結構ヘヴィな煙草ですよ?それより樹さん、普段、煙草吸わないでしょう?」
「いいんだ、一本くれ」
「いいですけど…」
 怪訝な顔をしつつ、恋人は箱から一本煙草を抜き取ると、樹の唇に一本くわえさせた。そして自分の煙草の先の火を樹に分けてくれた。
「…ありがとう」
 樹は軽く口の中を煙で満たしてみた。甘く苦い独特のタールの味が舌の上を転がっていく。お世辞にも美味しいとは言えないすえた煙草の味と、重たい香り。その香りが、脳にひとつの像を作っていく。
 もうずっと昔、心の奥底に無理矢理しまい込んで、長い間引き出してくることもなかった想い出が、ゆらゆらと脳裏に鮮やかな像をもってかげろうのように揺らめきはじめる。
「もしかして、昔の男が吸ってた、とか?」
 樹は答えず、ただ微笑んでみせた。
「―否定しないんですか?ちぇっ、なんだか妬けるなあ」
「十五年も前の話さ」
 そう、十五年も前のことなのだ。
 煙の香りとともに、古い記憶が蘇っていく――。
 
 樹は煙草を吸わない。
 だが初めて愛した男はヘビースモーカーだった。

 部屋に透明なガラス製の灰皿があって、その中に煙草の吸い殻がひとつ、またひとつ、段々と積み重ねられていく。その様子がが十八のイツキには新鮮だった。
「ねえ、先輩、その煙草おいしいの?」
 そうイツキが聞くと「いいや?」と五つ年上の先輩は答えた。
「じゃあどうして吸うの?」
 またイツキが聞くと、彼は困ったような顔をした。
「なんでかな、僕にも分からないよ」
 彼は口にくわえていた煙草を指でつまむと、ふうっと口から長い煙を吐き出した。白くて長い煙はぐるぐると大きな円を描きながら天井へとゆらりゆらりと舞い上がる。そしてまた煙草を一本取り出すと銀色のライターでかちゃり、と火をつけ、口にくわえた煙草の先に火を付けて、すうっと煙を吸い込み、そしてゆったりと吐き出した。
 1Kの狭い部屋はみるみるうちに煙で一杯になる。
「俺にも吸わせてよ」とイツキが身を乗り出して言うと、彼は「ダメ、未成年が吸うと背が伸びないんだから」と笑った。
「もう背は止まってるの知っているでしょう?」
「そうだったっけ?」
「ケチ」
 イツキが彼のグレイのニットをぐいぐいと引っ張ると彼はイツキを眺めて「イツキは子供だなあ」と笑った。
「子供じゃありません」
「子供だよ、まだたったの大学1年生だ」
 でも彼はイツキの瞳を愛しげに覗き込むと「そんなにひっつかれると…困ったな」と苦笑いをした。
「本当に子供じゃないんだよ、先輩だってたったの大学院生でしょう?」 
どこかの少女漫画で見たような、そんなお決まりの台詞を精一杯背伸びをしてイツキは先輩に放つ。挑むように精一杯先輩の瞳の奥を見つめる。彼は隣にいるイツキの身体をすっと片手で抱き寄せ、軽くイツキの鼻筋にくちづけをした。
 軽いコロンと煙草の匂いと、グレイのニットの香りが混じり合ってイツキの鼻腔に流れ込む。目を閉じてイツキはその香りを堪能する。
「イツキは小さいなあ」
 そう耳元で囁く声が柔らかくて、好ましい人だと、イツキは思う。
「ねえ先輩」
 イツキはじっと彼の瞳を見つめる。
 茶色がかった彼の瞳は少し戸惑っていて、でも、ゆらゆらと男の目になりそうなのを必死で堪えている、そんな感じだった。
「困ったなあ……どきどきする」
 そう言って彼はイツキの頭を抱え込んだ。そして2、3回髪の毛を撫でると、ふと顔を上げさせて、「キス、してもいいかな」とイツキに問いかけた。
 今さら何を言うのだろうと、イツキはおかしかったけれど、そんな馬鹿に真面目なところも好ましいと思った。
 イツキは目を閉じた。
 彼の匂いが少しずつ近づいてくるのが分かる。そしてくちびるが触れた。
(にがい)
 男の子とのキスじゃない、これは「男」とのキスだとイツキは思った。
 その証拠に男の両方の手が、顔の周りを撫でていたかと思うと、やがて腰に落ち、器用にズボンの中に滑り込んでくる。
「先輩…」
「困ったなあ」
 そう言う男は本当に困った顔をしている。
「――どうして困るの?」
「イツキ、お前はまだほんの子供なのに」
「子供じゃないって言っているでしょう?」
「知らないぞ、もう」
「望むところ」
「イツキ…」
 男の目が雄の目に変化していくのを、イツキはうっとりと見つめた。
 気付くとひょいと抱えられ、男に向い合う形で座らせられた。
 するすると男は器用にイツキの脚から、片方ずつズボンを引き抜いていく。
 引き抜かれたズボンが、それから下着が、足首に絡まっていく。ひんやりとした風が直に肌に触れて、自分がとんでもなく卑猥な格好をしていることに、イツキはようやく気付いた。
「イツキ、もう少し脚、開ける?」
「え…っと」
 流石に恥ずかしくなってイツキは少しだけ躊躇した。すると先輩はくすり、と笑って「やっぱりやめる?」と聞いた。
「……いやだ、やめないで」
 イツキは反射的に答え、おずおずと脚を開いた。もう、後には引けない。
「イツキはいけない子だ」
「馬鹿」
「そうだな、…どうしようもなく、イツキに馬鹿になってる」
 男の手がイツキのものに触れる。
「あっ」
「イツキ…」
 音を立ててこすられて、ぴりぴりとした快感に身をよじった。
 イツキは男と寝るのは初めてだった。
 だけど、この男と寝ることは、多分、きっと時間の問題だ、とイツキは思っていた。
 昨年、受験生だったイツキの家庭教師として兄が連れてきた兄の同級生、「早川」のひょろりと背の高い様子を玄関先で初めて見たとき、(僕はこんな男と寝たいのかもしれない)となぜか思ったのだ。
 医者になりたいのだ、というイツキの言葉に「すごいなあ」と素直な感嘆の声を出した早川は、真摯に受験勉強を教えることに専念してくれた。イツキも自分の夢を叶えるため、ただひたすらに勉強した。
(でも――)イツキは思う。休憩中に見せる男の筋張った喉とか、下品じゃない物腰とか、どこか浮き世離れした感覚とか、形のよい鼻筋とか、そういうものに、イツキは心惹かれた。
 そして合格発表の掲示板に自分の番号を見つけたとき、真っ先にイツキは早川に電話をした。「イツキ君なら当然だ」と、早川はただの大学院生の声を出した。
「先生の家に行ってもいい?」
 すると、男はちょっとびっくりした顔をして「あ、…うん。でももう先生じゃないけどね」と笑った。
「じゃあ、『早川先輩』だね」
「じゃあ、イツキ君も今日から『イツキ』、か。なんだかくすぐったいなあ」
 そうやって早川は「先生」から「先輩」へとあっという間に変化し、イツキは早川の家に遊びに行くたび、(僕はこの男と寝るのかも知れない)と、ぼんやりとした感情が確信へと近づいてくるのを感じていた。
 
元来男しか見つめることのできなかったイツキだから、早川がノーマルではないと見抜くのは簡単だった。
 もしかしたら、早川のほうもそうだったのかもしれない。
――現に二人はこうやっていやらしいことをしているのだから。
「こんなことがばれたら、イツキの兄ちゃんに殺されちゃうかもなあ」
「そうしたら二人して殺されればいいよ」
「まだ、してないのに、殺されたくないなあ」
「じゃあ…早く、して?」
「そんなに可愛いことを言って。本当に知らないぞ」
 男の指が入り込んでくる。思わずひくっと身体を震わせる。
「痛く、ない?イツキ」
「少し、痛いけど、平気…」
「濡れてる、ここ、可愛い」
「…やらしい」
「やらしいのはイツキの身体だよ、ほら」
「んン…っ」
 ぐるり、と指を回されて、直に粘膜に与えられる快感が腰から背骨から頭の先まで突き抜けた。
 早川の指は慣れていて、あっという間にイツキの感じる部分を探し当てた。
「ここ?いい?」
 聞かれるまでもなく、イツキの脚も腰も快感に震え、甘く痺れるような感覚に溺れはじめていた。
「イツキ、後ろ、向いて」
「え?」
 くるりと身体を反対に返され、イツキは四つんばいになって側のテーブルに手をつき、尻を思い切り突き出す格好にさせられた。
「や、やだ…」
 ぺろりとそこを舐められて、生理的な羞恥に汗が噴き出した。
「やあ…ん」
「可愛い、すごく可愛いよ、イツキ、イツキにこんなことをしているなんて」
 片手が開かされた太股の間に入り込んできて、ゆるゆると撫で上げる。
 くちゃくちゃとした音が部屋中に響いて、耳からも犯されているようだった。
そして早川が近づくたびに、シトラスの香りのコロンと煙草の香りがまた漂っていて、音だけじゃなくて、匂いにも犯されているようだとイツキは思う。五感の全部で、男はイツキを犯し続ける。体中丸ごと、犯され続けるのだ。
「――イツキ、抱くよ」
(何を今さら)とイツキはまた可笑しくなった。そうだ抱かれることは決まっていたのだ、初めて会った日から。
でもそんな律儀さがやっぱり好ましい。
 ぐいといっぱいに開かれたイツキの中に、熱いものが押しつけられた。最初は少しだけ、それから徐々に入り込んでくる。
「ひ…っ」
 流石の質量に悲鳴を挙げてしまう。
 みしみしと身体が裂けてしまいそうだった。
「イツキ…少し力、抜いてみて?」
 深呼吸をひとつ。
「そう上手だ、いい子だね」
「――だから…子供扱いしないでって…」
「分かってる…イツキの身体。どこもかしこも、僕を淫らに誘ってくる。ああ、イツキ……イツキの中、熱いよ」
「大好き…」
「ああ、俺も」
 強引に振り向かせたイツキの唇に男の唇が重なる。こじあけるようにして男の舌が入ってくる。
(にがい…にがい煙草の味…)
 混ざり合う唾液の味。離した唇と唇に透明な糸がきらきらと光った。
「動くよ…」
 そう言って男が腰を抱えたと思うと、ぐいっと引きつけられ、粘膜と粘膜が密着する。ぴちゃぴちゃと音が身体の間から発せられ、イツキの身体はぐんぐん熱くなる。
「あ、あ…っん、んっ」
「イツキ、イツキ」
 なにが何だか分からないまま、抜き差しされて、目の前にちかちかと火花が散った。
 誰のモノかわからない体液の匂いと、煙草の匂いと、シトラスのコロンと…。
「ひ…ああん…」
 もはや何を言っているのかさえも分からない。本能に任せるだけの意味をなさない叫びだけが、二人の口から漏れ始める。焼け焦げそうな痛みと快感だけが、支配して、動くたびに襲ってくる。
「い、いっちゃう、もう」
「いいよ、いっちゃえ」
 まだ見ぬ時空、きらめきの高いところへとあとはもうただ駆け上っていくだけだ。
「あ。あ…ああっ」
「…っ」
(やっぱり僕は、先輩に抱かれた――)
 高みから、急速に落ちていく中、イツキはそう考えた。
 そして二人は何度も当たり前のように抱き合った。
 そうなるようにできていたのだ、とイツキは思った。
当たり前のようにしっくりと、イツキの身体は早川の身体になじんだ。

 そして、季節は二人の間に当然のように流れ続けた。
 彼のそばではいつも煙草の香りがした。

 早川が外国に留学したのは、イツキが二十歳のときだった。既に彼は博士課程の研究者の卵だった。
「一年で帰ってくる」と彼は言ったけれど、学生のイツキにとって一年は途方もなく遠い時間に思えた。
 空港の屋上で、遠ざかる飛行機を眺めながらイツキは泣いた。
 
 そしてとうとう早川は帰ってこなかった。
 イツキが彼に対面をしたのは、葬儀の席だった。
(あっけないモノだ)とイツキは遺影に語りかけた。
 交通事故の知らせは、あまりに突飛な出来事で、涙さえも出てこなかった。
 医者を目指しているイツキは、何体もの冷たい死体を目にしてきた。
いま目にしているもの。ただそれが、早川だった、というだけだ。
「信じられない」と同席していた兄は何度も呟いた。情に厚く、涙もろい兄は、既に真っ赤な目をしていた。イツキはそんな兄の姿をぼんやりと側で見つめていた。
 既に彼の両親にも二、三回会ったことがあった。彼の両親らは兄と、そしてイツキの側に寄ってくると、「ごめんなさいね」と盛んに憔悴しきった顔で頭を下げた。    
兄は言葉を詰まらせ肩を震わせていた。イツキは兄の代わりに口を開いた。
「悪いことなんて、されていませんし…どうかお気をおとされないで下さい」
 そう言って逆にイツキは彼等を励まし、そして酷く後ろめたい気持ちになる。
 早川の母親はこう続けた。
「――本当にねえ、あの子、イツキ君のことよく話していたのよ、『医者の卵をすぐ側でみているんだ』って。『そのてのひらで、人間の命を救えるなんてすごいだろう?』って、自分のことのようにそれは嬉しそうにね…」
 そしてイツキに頭を下げ、「もうあの子のことは忘れてやってね」と続けて言った。
 ――忘れる、そんなことができるのだろうか。早川が車に轢かれただなんて、そのことさえもまだ実感が沸かないと言うのに。それを忘れること、そんなことまでイツキには想像すら出来なかった。そう、イツキは当たり前のように彼に抱かれた。身体を合わせることも、共に語り合うことも、当たり前すぎた。必然として彼に出会い、抱かれ、共に過ごしてきたのだ。その彼がいなくなるなんて、そんなことがあるはずもないのだ。
(子供を庇ってひかれるなんて、似合いすぎだよ)
 そう言って笑ってみた。
(―なにが医者の卵だ。命を救ったのはあなたのほうじゃないか)
 くくっと不謹慎にも笑いが漏れた。大切な人間を失って、一体何が医者の卵だ。命を救う、だ。
 ぼんやりとした頭のままで、仏壇に手を合わせ、にこにこ笑っている先輩の遺影を眺めていると、ふと脇机の上にちいさな供え物がしてあるのに目がいった。
仲の良い友人達が贈ったのだろう、彼の好きだったビルエバンスのCDが二つ、研究していた考古学の本が三冊、それから大好きだったウィスキーの瓶が数本、それと紺色の煙草の箱たちがぱらぱらと。
 イツキは周りを伺うとそっとふところに煙草の箱を一つ、ポケットに忍ばせた。
 二年以上も一緒にいたのにまじまじと煙草の箱を見るのは初めてだった。自分の部屋に戻ると、イツキはそっとその箱を開けると、一本だけ煙草を取り出した。
ひょいと、口にくわえて、近くのコンビニで買った緑色の百円ライターで煙草の先にかちりと火を付けた。
 すうっと一口吸った途端、思い切りむせた。げほげほと咳き込んで、でももう一口イツキは吸い込む。そして再びげほげほと咳き込んだ。
 タールとニコチンのくすぶった強い煙草の匂いがイツキの鼻をぎりぎりと刺激した。
 煙が目に入って生理的な涙がぽろりと出た。
 すると、強烈に彼の映像がぽつぽつと、そして次々に浮かんできて、イツキは混乱した。
「イツキは子供だなあ」そう言って笑った男。
いつも困ったような顔をして、でも宝物のようにイツキを扱ってくれた男。
「困ったねえ」と言いながら大きな手をゆっくりと伸ばしてイツキを庇うようにいつも抱きしめてくれたその太い腕。
 巻き込まれた胸から聞こえてくるとくとく、という規則正しい鼓動。
 イツキを抱くときの、うっとりと細められた瞳。
 いつも纏っていた軽いシトラスのコロン。
「僕はどこにいても、ずっとイツキのことが大好きだよ」そう言って空港で手を振った最後の早川の姿。
(うそつき、うそつき、うそつき)
 初めてイツキは大声をあげて泣いた。
 命が消えるということは、こういうことなのだと思った。
 当たり前のものが一瞬のうちに消え、人間の中に自分が神に召されるその日まで、修復不可能な深く黒い穴を開けていく。
 紺色の煙草の箱は、もう二度と開けることはない、絶対に、ない。イツキはそう思った。

 
 深く煙草を吸い込むと、くらりと視界が歪んだ。
「きついでしょう?」と、若い男が尋ねた。
「…きつい、な」
 樹は顔をしかめた。
「ははは、世間じゃ冷静沈着で通っている天才外科医のあなたが、こんなに苦い顔をするなんて、あなたの部下達に見せてやりたいな」
「お前だって、新進気鋭の弁護士先生、だろう?」
「俺はいいの、アナタにどっぷり浸かっているんだから、それにしてもあなたのその神がかった指で、一体何人が救われてきたんでしょうね?」
「それは、治療でか?それとも、ベッドの中でのことか?」
「……どっちも」
「はは」
「それにしても…意味深だな、やっぱり昔の男?」
 樹は灰皿に吸いかけの煙草を置くと、少し笑ってみせた。
「やっぱりそうなの?妬けるなあ、この煙草に想い出があるんでしょう?」
「――そうだな、少なくとも、解剖の前に手を合わせるようには、なった、かな」
「え?」
「いや、なんでもない」
「ちぇっ…もしかして、樹さん、まだその人のこと愛している、とか?」
 樹は不安そうな顔をした恋人の前髪を撫でた。
「馬鹿、今、俺と抱き合っている人間は、お前、だろう?」
 そう言って樹は恋人の口を塞いだ。
 苦い味が、また舌に絡まってゆく。
 そうだ、俺はここにこうして、生きている。
 狭間を越えても、ここにいる。
(久しぶりに花をたむけにいくか)
 そんなことを考えながら、樹は恋人の身体を引き寄せた。
 舞い上がった煙がくるくると渦を描いて、そして消えた。

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(初稿2008作成。改訂版を同人誌掲載済)
香りをテーマにメモをしていたもの。
なかなか好評な一本だったのですが、樹の現在生きている作品を書きたいなあと思っているところです。
モクジ
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