君の香り

モクジ
 自分の生きる世界が広くなるということは、必ずしも幸福なことばかりじゃないのではないだろうか。
 小さい頃、世界は適当な広さを保っていて、その狭い世界で僕は十分に幸せだったと思う。
 地元の小さな公園、灰色のコンクリートでできた団地。2LDKの一家4人には狭すぎる小さな部屋。通っていた小学校。たまに帰る母親の実家。それが僕の知っている世界の全てだった頃、僕はその空間で愛を受けて育ち、満たされていた。
 それがいつの頃からか定期券を得て隣町のことを知り、大学進学で上京してそのまま就職し、それから海外にも何度か脚を運ぶようになった。僕が知る世界は恐ろしいスピードで広がっていく。日本は、世界は狭くなったと言われるけれど、そのせいで煩わしいもの思いの種が増えてしまったのは僕だけじゃないと思う。
 昔々、京の都に上った人間は、大切な人に今生の別れをしたに違いないが、二度と会えない距離は、ある意味人間にきっぱりとした諦めの気持ちを与えてくれる。内蔵がねじられるほどの苦しみや悲しみだろうが、それでもすっぱりとあきらめもつくはずだ。人が余計な物思いに苦しむのは、いつだって中途半端な状況のせいだ。現に僕は今羽田にいて、「飛行機なんてなければいっそよかった」などと、文明の利器に対して不謹慎なことを思い続けている。

《羽田発、伊丹空港行き最終便にご登場のお客様、当機はもう暫くしますと搭乗手続きを終了致します、ご搭乗の方は、お急ぎ、手荷物検査場を通過の上三番ゲートまでお越し下さい…》
 空港のロビーにはもう人はまばらだった。時計台の時計は七時五分を指している。僕は笑顔を作る。
「あと十五分だろ、そろそろ行った方がいいんじゃないのか?」
 隣に座っている榊は、腕時計を見ると「もうそんな時間か。やっぱり八時台の関空行きにしておけばよかったかな」と言う。
「明日からまた仕事だろう。早く帰って寝たほうがいい」
「…また来るよ、涼。来月か、再来月か。今度こそ新しくできた麻布の料亭に行こう。今回は時間がなさすぎた」
「北新地あたりを日々開拓しているんだろうに」
「たしかに関西はうまいものが多いよ。腹が出ないようにしないと、事務所の女の子に嫌われてしまう、ハハ。そっちは、
―ああそうか、お前がボスに五月蠅く言っているほうだったな。失敬」
 出る気配すらない引き締まった腹をさすりながら、榊はおどけてみせる。
「それよりも、早く関西弁に染まれよ榊。お前には全然関西訛りがない」
「ハハ、所詮よそ者だからな、俺は。一年やそこらじゃ変わらないよ」
 じゃあどうして大阪に異動願いなど出したんだ、と僕は思わず問いつめそうになるのを堪えた。会計士の榊は、僕がパラリーガルとして勤める弁護士事務所からほど近い、とある監査法人のスタッフとして働いていた。それが一年前、突然そこを辞め、系列の大阪の監査法人にあっさりと転職してしまった。榊の実家は仙台だから、郷里に帰ったという訳ではない。うまいものが食いたくなったから、と大阪にすっかり引っ越してしまってからのあっけらかんとした事後報告では、文句のひとつすら言うことさえできなかった。
 榊は優秀な男だ。まだ独立していない榊のところには、数え切れないほどのヘッドハンターが触手を伸ばしている、という話を聞いたことがあった。しかしまさか東京を出て行くとは思わなかった。いや、そうじゃない、僕の目の前から消えるとは、思っていなかったのだ。学生時代に知り合ってからも、就職してからも、気付けば榊は僕の側にいた。そして永遠に続く友人同士のはずだった。
 いや、それも少し違う。友人同志という関係を続けることに、そろそろ無理がきていたことは確かだ。

 僕と榊は、一度、寝たことがある。
ずっと昔、一度だけ。

 そのときのことを二人とも口にすることはなかったから、あの情事が本当に僕の身に起こったことだったのかさえ、疑わしいと思うこともある。
 だが、僕は榊の感触をあのときから一度だって忘れたことはなかったのだ。

 大学時代、陸上部のマネージャーをしていた僕は、もともとはハイジャンプの選手だった。だが、脚にとある故障が見つかってらは、裏方に徹することになった。元来表舞台に立つよりも、裏で参謀的な役割をすることが性に合っていたのか、自分が華やかな舞台に立てない苦しみよりも、選手に気を配り、その選手の力が華やかに開花するのを見ることが、すぐに僕の喜びに取って代わった。思えば、僕が法学部を出て弁護士の秘書業務のようなことをやっているのも、このときの経験によるものが大きい。
榊は秋頃、途中入部してきた。長い手足と、恵まれた均整のとれた体つき。高校まではバスケットをしていたらしいが、この男は伸びる、と僕の直感ははたらいた。そのくらい榊のストライドは美しかった。サバンナを駆け抜ける豹のようだ、と僕は思った。
 しなやかに駆け抜ける榊の褐色の脚。僕は彼の肢体が風のようにゴールラインを駆け抜ける瞬間を、ストップウォッチで切り取る。その一瞬を逃すまいと、僕は待ちかまえた。
「記録、更新」僕が榊に告げると、暫く肩で息をしていた榊の脚がくるりとまわれ右をして僕の前に止まった。
「なあ、風に色ってあると思う?」
「え?」
 突然何を言っているのだろうと僕は榊の白と黒のコントラストがくっきりとした目を見た。
「マネージャ、ハイジャンやってたんだって?」
「ああ」
「じゃあ分かると思ったんだけど。走ると、こう風が全身に当たるだろ?たった十秒間の間だ。だけどその十秒の空気には何か色が付いているような気がするんだ」
「色」
「うまく説明できないが、なんだろうな、特別な十秒」
 ああ、それなら分かる、と僕は思った。空を飛ぶ瞬間。あのとき見える一瞬の空の色。たったゼロコンマ何秒かの空が見え、ぐらりと空は反転し、そしてバーを越した瞬間、真っ逆さまにマットに落ちていく数秒間。そのときの空の色は確かに特別な色をしていた。目の前をとおり過ぎていく一秒一秒、それがなんと愛しいのだろう。そう感じながら時間が無限ではないこと、そして有限だからこそ美しいものもある、と僕は知ったのだった。現に僕にはもう空を飛ぶ脚がない。
 トラックを駆け抜ける榊の目にも、あの特別な色が見えているのだろうか。
 僕がストップウォッチを持ったまま立ちつくしていると、榊は「変なこと言ってごめん」と照れくさそうに笑った。笑うと少し目尻にしわが寄って、すっきりとした目に人なつっこい表情が浮かんだ。僕は榊の視線の先に見えるものを一緒に見たいと思った。恋に落ちる瞬間があるとすれば、おそらくそのときだったに違いない。
 恋は音もなくやってきては、世界を別の色に染め上げてしまう。
 僕の直感は当たり、榊は三年で陸上部の主将にまで上り詰めた。宴会の席では、榊は気持ちの良い酒の飲みっぷりを発揮した。明るく、快活で、そして将来は会計士になりたいのだ、と夢を語り、そして白い歯を見せてよく笑った。僕はそう人付き合いが上手い方ではなかったが、榊の側にいるおかげでずいぶんと他の部員とも親しくなることができた。
 月日が流れ、引退試合が終わった後、僕らはしこたま飲んだ。とうとう側で榊の走りを見ることもなくなる。僕らに残されたのはあとは単位と、ゼミと、あとは就職活動だけだった。そうだ、時は永遠には続かない。
 二次会に行き、三次会に行き、そしてしまいには開いている店もなくなり、僕と榊は部屋に酒を持ち込んでまた飲んだ。気付けば僕らは飲みながら床の上で眠ってしまっていた。
深夜四時頃、床の上で目を覚ました僕の目に飛び込んできたのは、ほんの数メートル先で横たわったままこっちを見ている榊の顔だった。完全にアルコールが抜けておらず、飲みすぎで頭がまだぐらぐらしていた。
「――起きてたのか、榊」
 榊はああ、と目で答えた。
「―こっち、来いよ、涼」
「え?」
「いいから」
 僕は少し身体を起こして榊に近づいた。アルコールの匂いがどちらからともなくきつく匂った。ぐい、と腕を引っ張られて榊の腕の中に引きこまれた。
「まだ酔ってるだろ…榊」
 あまりに近すぎる距離に、心臓が口から出そうになる。榊の胸の鼓動が聞こえてきて、心臓は鷲掴みにされたようになり、アルコールで気持ちが悪いのか、ただ異様な距離に緊張しているのかよくわからない気持ちになって、僕の身体は思わず震えた。
「お前の身体……冷たくて気持ちいい」
 榊の掌が僕の額に触れ、頬に触れる。そして耳たぶに触れ、首筋に触れ。
「おい、榊、俺を彼女と間違えるなよ」
 榊には噂になっている女がいた。可愛い女の子だった。はっきりと聞いたことはなかったが、おそらく彼女なんだろう。
 榊の手が僕の背中に周り、さすり始める。
「おい、いい加減に……」
 咎め、身体を引きはがそうとするが、榊は僕と知ってか知らないでか、僕を離そうとはしなかった。
 そうか、榊はこうやって女に触るのか。その指で女に触れ、うっとりとしたため息を付かせ、悦びを与え、喘がせるのか。脚を開き、そのしなやかな身体を穴に埋め込むのか。激しく腰を動かして、放出する瞬間、お前は恍惚の表情を浮かべるのか。
 そこまで考えると、胸が詰まって涙がにじんできた。今すぐ目の前にある榊が快楽に身を任せる瞬間。その瞬間に僕はいない。永遠に。
 それならば、勘違いでも、いい。気持ち悪いと、言われてもいい。お前が酔っぱらっていてもそれでもいい――。
 僕の目はきっと安っぽい娼婦の目をしていたに違いない。僕は榊に抵抗するのをやめ、身を任せた。
 僕は唇を探している榊に、唇を与えた。焼酎や、日本酒や、安い酒がごっちゃになった変な味がする舌に自分の舌を絡ませた。
「ん……っふっ」
 漏れてしまう声。適度に厚い榊の唇はすっぽりと僕の唇を挟み込む。榊の指が僕の髪の生え際に差し込まれ、長い睫がさわさわと触れる。ジャージの化学繊維ががさがさと音を立てる。
「…ほら、榊」
 僕は榊のトレーニングパンツに触れた。泥酔はしていないのか、榊のそこはしっかりと反応していた。
「…っ」
 僕はゆっくりと擦った。すると榊の手が降りてきて、僕を触りだした。酔った男が二人、オナニーまがいの行為を二人でしているなんて、なんて滑稽なんだろう。だけど雄の性欲は止まらない。ましてや手の中に僕が焦がれてやまない人間がいて、その腕が僕を抱きしめているのだから。
 眉根を寄せた榊は「涼…」とひそやかな声で僕の名前を呼んだ。僕は泣きそうだった。嘘でもいい、夢でもいい、僕の感触を「僕」だと認識してくれ。たった一瞬、この一瞬だけでいいから。
 僕は榊の身体に馬乗りになった。体をつないでしまいたかった。榊のトレーニングパンツをひきはがすと、僕は自分のズボンも脱ぎ去った。
「気持ちよく、してやるよ、僕が」
 僕は榊のものから今にも溢れそうになっている透明な液体を自分の体内に指先で塗り込めていった。男と関係をもったことはあったが、ノーマルの男と、しかも半ば無理やりに身体を奪う形で繋がるのは初めてだった。緊張と恐怖と、それから恐ろしいほどの欲情が倒錯した快感を呼び起こしてゆく。僕の身体の襞という襞は、情けないほど目の前の榊を欲しがって戦慄(わなな)いていた。僕はゆっくりとゆっくりと榊の上に腰をおろしていった。
「あ、榊…」
 健康すぎる榊の体が硬く、熱く僕の中に侵入する。みしみしと裂けてしまいそうなくらい、僕の空間を榊のものが埋め尽くす。同時に僕の脳みそも榊のことだけで埋め尽くされていく、
「涼、平気、なのか?こんなこと」
「今更だよ榊。もう僕らは繋がってしまった」
 すると榊の両腕がすっと伸びてきて、僕の両腰をがっちりと掴んだ。節くれだった日焼けした指が僕の皮膚にめり込んでいく。僕は榊の腕が促す動きに応じて榊の上で動いた。
 そうだ、もう後悔しても遅いのだ。こうなってしまったならばもう快感を貪るしか道は、ない。
「――気持ち、いい?」僕は息もとぎれとぎれに尋ねた。
「ああ…お前は?」
「いいよ、すごく。このまま時間を止めてしまいたいくらい」
「――泣くな」
 いったい僕は泣いていたのだろうか?榊はそう言うと、僕にひとつキスをし、そのまま僕を押し倒すと、床に組敷いた。絡めあう指先から伝わる榊の鼓動と体温。
「え?」
 そう思った瞬間、僕の腰の下にその辺に転がっていたタオルが丸めて押し込められた。高く腰を突き出す格好になり、そこで大きく足を広げられた。
「ちょ、榊…っ」
 何もかも榊の前にさらしてしまう格好になって、僕は自分から身体を開いたくせに羞恥に震えた。
「信じられない、お前がこんなにいやらしいなんて」
 榊は熱にうかされたような顔で僕を見た。
「お前のせいだからな…っ畜生」
 僕は子供のような悪態を付き、そして今度は本当に泣いた。欲望を抑えられない自分。榊が好きでたまらない自分。手に入らないと分かっていながら体を開いてしまう自分。それでも、それでも僕は榊に抱かれることを選んだ。たった一夜の夢だとしても。
「ひ…っ」
 細められた舌が侵入してきた。ぴちゃぴちゃと音をたててなめあげられ、ひくりひくりと僕の体は榊を逃すまいと反応した。
 大きく足を広げられ、じっと凝視されて、自分から身体を開いたくせに、僕は恥ずかしさで消えてしまいたくなる。
「や、やめ、榊」
「気持ちよく、してくれるんだろう?お前が」
「…っ」
 自分の言った言葉で煽られて僕は恥ずかしさの余り手で顔を覆い隠してしまった。
「こっちを見ろよ、涼」
 榊の手が僕の顔に近付いてきて、僕の髪を撫でた。ゆっくりと、ゆっくりと。その手の感触があまりに優しくて、僕は手の指の間から、榊の瞳を探した。
「畜生、畜生、畜生…っ、お前のせいだ、お前のせいだ」
 僕は子供のようにわめいた。
 そして僕は情動のまま榊を抱きしめ、両の脚の脚を榊の胴体に絡ませると、僕の中に導いた。
「涼…―――」
 何か榊はつぶやいたが、もう僕はなにも聞こえなかった。ただただ劣情に任せて榊を貪った。榊に何度も貫かれた僕は、貫かれるまま、背筋を這い上ってくる快感に身を任せた。ああもうすぐ絶頂だ、そう思った瞬間、榊もびくり、と震えて「ああ」とひとつ溜息をつきながら熱い液体を僕の中に放った。僕は瞳を閉じたまま、吐き出す瞬間を迎えた。
 ――ああ、落ちていく。
 まっさかさまに落ちていく。
そしてその向こう側に見えるのは、愛しい人間が快楽におののくたった一瞬に見せる表情。
大丈夫だ。
この瞬間があれば僕は生きていける。きっと生きていける。
 僕はそう思いながら、この瞬間を永遠に封印しようと、そう心に誓ったのだった。
 
 ―――ああ。このまま永遠に闇が続けばいい。

 だが無情にやってきた朝の光が照らし出したのは、散乱した部屋と、酒臭い空気と、雄の匂い。現実とはかくも冷たいものか。いたたまれなくなった僕はシャワーを浴びた。服を着て部屋に戻ると榊がこめかみに手を当てながら座っていた。
「……大丈夫か?」と僕は聞いた。
「ああ、飲みすぎだな。お前こそ大丈夫か」
 お前に抱かれた身体が?それとも二日酔いが?そんな質問が頭をよぎったが、僕はそこまで馬鹿じゃなかった。
「ホルムアルデヒドが脳みそを駆けめぐっているのは間違いないけどね」
僕はミネラルウォータを飲みながら、テレビを付けた。
 いつもの気象予報士が、今日の天気を告げていた。――絶好のお出かけ日和となるでしょう――。
 いつもの日常が帰ってきた。榊はシャワーを浴びて僕の家からアパートに帰った。榊は何か言いたそうな顔をしていたが、僕は何も言わせなかった。
 そして僕は教授の知り合いがやっている弁護士事務所に就職し、榊は一年浪人した後、会計士になった。
 それから七年。
 僕らは友人同士という関係を続けた。榊が走ることはなかったし、僕が榊のタイムを取ることがなくなった、それだけだ。
 たまに飲みに行き、とりとめもない話をして過ごしてきた。あの夜のことを、どちらも口にしたことはなかった。
 その榊が一年前に大阪に行くことを決め、その事実は僕に相当な衝撃を与えたのだが、僕はこれで本当に榊と縁が切れる日がやってきたのかもしれない、と思っていた。ところが、榊は今でもひょっこりと東京へやってくる。仕事で呼ばれるのだから、仕方ないのだが。しかし、微妙な間隔をおいて顔を見てしまうと、人間の心理というのは不思議なもので、逆に寂しさが募るものだ。抑えていた愛情が吹き出しそうになる。ましてたった一時間。たった一時間で榊がいる街に着いてしまうのだ。一時間といえば、僕が家を出てから職場に到達するまでの時間にほんの数十分を加えただけの時間。一時間しかない中途半端な距離が僕をぎりぎりと絞めつける。飛行機や新幹線すらない時代だったら、こうも簡単に行き来なぞできず、僕の側に榊が「いる」か「いない」かのどちらかだったに違いないのに。この距離を持ってして、友人を続けていくエネルギーは途方もなく大きい。微妙な距離がたまに会える喜びをうむと同時に、その喜びをいとも簡単に飲み込んでしまうくらい激しい寂しさを僕に与える。お前が好きだと、お前にもう一度抱いて欲しい、そう叫んでしまいそうになる。
 これはあのときはっきりと型をつけなかった僕の失態に対する罪なのだろうか。友人という関係を手放さなかった僕が負った代償は、途方もなく大きかった。
 
長々と昔のことを思い出しながら、僕はまた時計台の時計を見た。
 七時十分。
 榊もまた腕時計を見て立ち上がり、ボストンバックを肩に掛けた。
「車、羽田まで出してくれて助かった。見送りはいいから。見送られるの、本当に苦手なんだ」
 にっこりと榊は笑う。
「そうか。じゃあ、俺は帰る」
「そうしてくれ。夜道の運転、気を付けろよ」
「ああ」
 榊はチケットを上着のポケットから取り出すと、手荷物検査場への列に並んだ。
 一度だけこちらを振り向いて、僕に軽く手を振った。上背のある榊の姿は、群衆の中でもよく目立つ。いや、僕の瞳が彼の背中をどこでも見分けてしまうのだ。その理由は本当に単純なことだ。本当に単純なことなのだ。それにも関らず、何度も繰り返されてきた別れの時。いつになったら慣れてしまえるのだろう。すぐそばにいたことが嘘のように、あっという間に僕らは離ればなれになってしまう。きっとまた榊はすぐに東京にやってくるだろう。だけど、近い将来、本当に姿を消してしまう日がやってくるのかもしれない…。僕はしばらく立ち尽くしていたが、完全に榊が検査上に吸い込まれてしまうのを見届けると、今にも丸まってしまいそうな背筋をぴん、となけなしの気力だけで伸ばし、エレベーターへと歩き出した。すぐに帰る気にはなれなかった。今日に限って昔のことを延々と思い出してしまったからかもしれない。僕はショッピングモールを通り抜け、スーツケースでひしめきあったエレベーターに乗り込むと、六階のボタンを押し、展望デッキへ向かった。
 ごうごうとうなる航空機のエンジン音と、繰り返される離発着のライトが醸し出す赤や青や黄色の光の点滅。
 僕は懐から煙草を取り出そうと、ジャケットの内ポケットに手をかけた。手が滑って、引き抜いたタバコを一本取り落してしまった。しまった、とかがみこんだとき、ごおっと頭上を航空機が一台、飛び去っていった。ああ、あれは多分榊を乗せた飛行機だな。伊丹に向かって短い1時間のフライトだ。そして僕と榊も一時間の距離を隔てて、またつかず離れずの友人関係を続けるのか。
「はは…」妙な笑いが漏れた。かがみこんだ瞬間、僕は手に持っていた一冊の文庫本に目をやった。榊が貸してくれたヒルティの「眠られぬ夜のために」。こんな哲学書をおまえは読むのか?と聞くと「いやいや、この人は変な法律家でね、三百六十五日、いろんな物思いにふけっているんだぜ」と榊は笑っていたっけ。文庫本を手に取ると、ふわり、と鼻先に何かが香った。それは榊が挟んでいたであろう栞だった。確かに榊の匂いがした。
「は、ははは…」僕はそのページを読んでまた笑った。(われわれが人生で当面する憎しみの大半は、単に嫉妬か、あるいは辱められた愛にほかならない)なるほど、なるほど。まったくその通りだ。飛行機はぐんぐんと高度を上げて飛び立っていく。美しいラインを描いて飛び立つその姿は、まるで学生時代に見た榊のあのストライドのようだと僕は思った。永遠に時を止めてしまいたいと思うような、美しい、愛しい一瞬。ああ、そばにいてほしい。お前に今、そばにいてほしい。お前のそばにいる人間への嫉妬と、くだらない友人ごっこに憎悪をしている僕の心が焼き切れてしまわないうちに。
頼む。そばに、いてくれ―――。
もう、嫌だ、こんなのは、嫌だ…。
 僕は展望デッキの柵に寄り掛かると、むせび泣いた。


「泣くなよ」
はっとして振り返るとそこには大阪に帰ったはずの榊が、ボストンバックを肩にかけ、立っていた。
「嘘、だろう?どうしてお前がここにいる」
僕は幻でも見ているのだろうか。都合のよい夢なのだろうか、これは。しかし、声を発したのは確かに榊だった。
「なんだか、おまえが泣いているように見えたから、戻ってきた。空港のお姉さんに相当いやな顔をされたが」
「――お、お前、仕事は?」
「一日くらい、休んでもクビにはならないだろう」
「そ、そうじゃなくて、どうして」
 すると榊は僕に駆け寄りぎゅっと僕を抱きしめた。榊の体温が、全身をつつみこむ。
榊の抱擁は、僕の最後の砦をいとも簡単になぎ倒した。抑えてきた感情が滝のようにあふれ出す。
「おまえが。お前がいないと、僕は、駄目なんだ…僕はお前がいないと、お前が、お前が…っ」
 自分が何を言わんとしているのかさえも、もはやわからなかったが、榊はただゆっくりと僕の髪を撫でてくれた。
「すまん、涼。俺は、お前が、お前だけを見てきたんだ。あの夜、お前を抱いたのは…お前を無理にでも欲しかったのは、俺のほうだ。あの夜を逃してしまっては、もうお前を抱くことはできないと、そう思った」
「そんな…じゃあこの八年は一体何だっんだ。ただの友達同士を続けてきたこの八年は…」
 自分のことを棚に上げて僕は榊にそう言った。あのとき、榊は何かを僕に言おうとしていた。それを告げさせなかったのは僕のほうだ。離れよう、もうお前とは会わない、と言われるのが怖かったのだ。ああ、僕はずるい人間だ。
「気持ちを告げれば、お前のまっとうな幸せを奪ってしまうんじゃないかと思った。友人のままお前の側にいられれば、それでいいのかもしれないと思った」
「―じゃあ、どうして突然僕の前から去ったんだ。どうして僕を置いて大阪に行ってしまったんだよ。どうして、どうして…」
「…お前を想ったまま、お前のそばにいるのが、辛かった。だけど、勝手なものだな。離れてしまえばお前のことばかり思い出してしまう。仕事にかこつけて会いに来てしまっんだが…それがお前を苦しめているとは思わなかった。本当にすまん」
 愛しさが濁流のように押し寄せてくる。
「榊、僕はお前のことが…」
 僕がそう言い終わる前に榊のてのひらが僕のほおを挟み込み、唇が僕の唇に重なった。
「ん…っ」
 瞼を閉じて、そして長いキスのあと、徐々に瞼の隙間から広がる視界。そこには榊の瞳があった。
 ごうごうと音を立てて、飛行機は次々と飛び立っていく。
 お前を抱きたい。そう榊は言った。
 ああ、抱いてくれ、と僕は答えた。
 一時間後、僕らは僕の家のベッドで抱き合った。
噛みつくように抱き合って、僕らは甘い言葉もなくただただ獣のように貪りあった。八年ぶりの榊の体は、僕を啼かせ続けた。口元からは唾液なのか涎なのかわからな液体が漏れ続け、互いの合わさった身体の間からは、とめどなく粘膜のこすれる音と、オスが発する液体が滴り落ち続けた。時を埋めるように愛し合い、体をはなすと、僕らはひとつキスをして、そしてくすくすと笑い合った。時間とは不思議なものだ。途方もなく長く感じられるかと思えば、今の僕らは、八年の時間を一瞬にして飛び越えてしまったのだった。
「嗚呼…、大阪、帰りたくなくなった」
そう榊はつぶやいた。
「馬鹿、仕事、あるだろう?二日も休んでどうする」
「ああ、もう。まったく、秘書だよな、そういうところ。さっきまでさみしがってくれていたのに」
 はは、と僕は笑う。途方もなく広がり続ける僕の世界。しかし、もう僕の中に迷いはない。あの夜、心の奥底に凍結させた榊の表情も、榊の身体の熱さも、落ちて行くときの感覚も、今は鮮やかに蘇り、そして新たな色をもって再び榊は僕の前に、僕の人生の中に、永遠に存在し続けるのだ。
「知らないのか、榊」
僕は言った。
「何を?」
「世界はすごく狭いんだぜ、一時間で飛べてしまうほどにね」            
                          
                              了 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(初稿2008年。同人誌掲載)
空港と遠距離恋愛がテーマ。
言いたくても言えない、そんな切なさを文字に。
モクジ
Copyright (c) 2008 藤咲ふみ All rights reserved.