モクジ
車は国道を南へと向かっていた。週末の軽い渋滞に、運転手はたびたびサイドブレーキを引いた。
 カーラジオから、軽いジャズが所在なく流れている。
 車内の暗闇の中、ぼんやりと映し出される運転手の横顔を、日高はちらりと見やった。
 黙り込んだまま日に焼けた右腕をハンドルにのせた男は、とんとん、と人差し指で規則正しいリズムを刻んでいる。
「…楡先(にれさき)、一体どこに行くんだ?」
「さあ、どこに行こうか…」
「お前、行く先も決めずに車を走らせていたのか?」
「――アンタは、どこか行きたいところがあったのか?」
「俺の質問に質問で答えるな、楡先」
 思わず冷たい声が出てしまう。
「すまん」
 ぽつりと楡先が答える。

 楡先は元来無駄なことを口にしない男だ。
 初めて会ったときもそうだった。とある殺人事件の被疑者の接見に、事務所のボス、沢木とともに日高が捜査一課に赴いたとき、担当の刑事の一人だったのがこの楡先だった。
 ボスの沢木は業界では有名な辣腕を振るう弁護士で、併せ持つその派手な容姿で、警察署に入った瞬間から、職員たちの注目を一手に引き受けていた。
 日高は、近くにいた制服警官に手際よく名刺を手渡し、「沢木事務所の…弁護士の日高です、こちらは沢木弁護士です」と名乗り、担当者への取次ぎを頼んだ。
「おや、これはこれは沢木先生、ご高名はかねがね」
 人のよさそうな刑事が愛想笑いをしながら出てきた。
「そんなに有名なの?参ったね、ハハハ…」
 隣でへらへらと笑う沢木。彼の笑いを遮って日高は言った。
「――被疑者にすぐに会わせてください」
「ほう、あなたが日高さんですか。なるほど、沢木事務所のナンバー2は氷のようだと聞いたことがありますなあ」
 冷静沈着、クールで感情を見せない。そんな形容詞が日高にはついて回っていた。
「―接見できるのですか、できないのですか」
「おやおや、若い方、まあそう焦らないで下さいな。なあに、十分ほど待っていただけますかね、こちらの椅子にでもおかけください」
 通された応接セットに日高は沢木とともに腰掛けた。
 日高は沢木のいつもの軽口をそばで適当に聞いていたが、ふと、絡んでくる視線に気がついた。
(…一体誰だ)
 さりげなく刑事部屋を見回すと、長身の若い男の目線とぶつかった。先ほど出てきた愛想の良い刑事の隣で、腕組みをしてこっちを見ている。
(視線の主はこいつか)
 日高がその若い刑事を見返すと、釣り目がちの黒い目が、じっと見つめ返してきた。どこまでも深く、黒い、意思に満ちた目。しかしその意思が何なのか、悟らせることのない目。
 こうやって人間を追い詰めていると言わんばかりの刑事の目は、どこか魅惑的で、危うく引き込まれそうになる。そうか、こうやってデカはホシを落とすのか。しかし――。いったいお前は何なのだ。どうして俺をそんな目で見る?
 普段は感情を表に出さない日高だったが、思わず不快感をあらわにして男を睨み付けると、今度はその目はすっと逸らされた。
 自分より若い刑事の目に嫌悪感を抱きながら、その日は会話をすることもなく被疑者との接見を終えると、そのまま警察署を去ったのだった。

 
 ハンドルを握った楡先は、さらに車を直進させた。このまま進めば、県境の峠へ連なる道だ。
 青い車体をトンネルに滑り込ませると、オレンジ色の非常灯が暗い車の中を照らし出した。赤銅色の楡先の肌が、光に反射して光った。
 日高はサイドブレーキにかけられた楡先の指先に目を落とした。少し前まで自分に触れていた指。自分の奥深くに侵入していた指先。この指先までの距離は、今は数十センチメートル。しかし、心は恐ろしいほど遠くにある、そんな気がしていた。
「…もう、終わりにしないか?」
 あの日、楡先と出会ってから三年。幾度も反芻しては打ち消してきた言葉が、今はのど元までせりあがっていた。
 若いと思っていた楡先ももう三十歳。叩き上げの刑事であるこの楡先は昼も夜もなく捜査に駆けずり回っていたし、日高自身も以前勤めていた大手の事務所から沢木に引き抜かれて数年目、事務所の中堅として弁護に追われる毎日だった。仕事には満足していたし、他の事務所のメンバーも優秀な人間が揃っている。
 ただここのところ、心がざわついていることは事実だった。三十代の男盛りがひとり、家庭も持たずに何をしている、そういう雑音もあった。いや、まだ自分は良い。ボスである沢木自身が、極度の色好みのせいか、当たり前のように独身を通しているので、事務所関係の人間からは一切雑音は聞こえない。「仕事ができればあとは何をしてもいいさ」それが沢木の口癖だが、逆を返せば、「仕事ができなければ容赦なく切る」、沢木はそういう男だった。一見軽く見える男だが、人一倍自分に対しても、他人に対しても要求レベルは恐ろしく高く、厳しいことを日高は良く知っていた。だからこそ、日高は沢木についていったのだ。期待を裏切らない仕事さえしていれば、余計なことを考える必要もない。ゲイの日高にとって最高の職場なのかもしれなかった。
 しかし、楡先はどうだ。日本で一番封建的な組織の末端にいる男だ。見合いだ、結婚だという話が楡先の周りに出ないはずもない。しかも、楡先はもともとノーマルなはずだ。
 思えば遠い昔、自分の性癖へ自覚を持った瞬間から、日高の心の奥底には、しん、とした静かな覚悟のようなものが、巣くっていた。
 わかりやすい形など望めない。男しか好きなれない男の人生などそんなものだ。そんなあきらめにも似た感情を抱えてずっと生きていた。
 日高は肉体だけの情事を散々繰り返してきたが、それでもやはり情は移る。仕事をこなすように、私生活をも割り切ろうと思っても、意に反して泥沼にはまり込んでしまう自分の感情が呪わしかった。まして日高は、楡先にどうしようもなく惹かれていた。惹かれすぎていた。

 始まりは今から三年前。その日の天候を日高はよく覚えている。雷雨が激しく、そして大型の台風が接近していた。
 絡まった恋に破れ、降りしきる雨の中、ずぶぬれになりながら歩いていたところを、たまたま通りかかった楡先の青い車に拾われたのは運命だとしか言いようがなかった。
 突然そばに止まった青い車。そのウィンドウから顔を出した男が問いかけた。
「日高先生…どうしたんですか?」
「…君は」
「楡先です。警察署で一度お目にかかりました」
 涙なのか雨なのか、どちらなのかわからない雫がほおを濡らし、目の前が白くにじんでいた。そんなひどく悪い視界の中に、以前刑事部屋亜で鋭い視線を投げてよこした一人の若い刑事の顔がぼんやりと像を結んだ。
「…ああ、あのときの。ハハ、まさか私が職務質問されるとはね…本当に情けない」
「あんた…酔っているのか」
 低い声が飛んできた。
「ほうっておいてくれ、――悪いが人と話す気分じゃない」
「乗ってください」
 男の腕が強引に伸びてきて、気がつけば助手席に座らせられていた。
(お巡りに拾われた迷子の子供か?俺は。ハハ、まったくお笑いだな)
 くくっと日高は笑った。そうさ、男に捨てられ、笑えるほど馬鹿な自分には、お似合いのシチュエーションじゃないか。
 ――別れた相手には妻子がいた。男は家庭を捨てられなかった。
 罵倒しあい、しまいには傷つける言葉の応酬になった。酷い別れ方に心底疲れきっていた。しかし、あの男を責めることが俺にはできるだろうか?ただあの男は、マイノリティとして生きることができなかっただけだ。そして普通の人間として生きることを選んだ、それだけだ…。ハハ、何が氷の日高だ。
 もう何も考える気力も体力もなかった。
 日高はアルコールでふらつく体をただシートに預けた。
 楡先のアパートに担ぎ込まれ、無理やりシャワーを浴びさせられ、ふたまわりも大きな楡先の部屋着に着替えると、ようやく固まっていた頭が働き出した。年下の刑事に晒してしまった己の醜態に、今更ながら顔から火が出そうだった。
「…すみませんでした、すぐに帰ります…」
「別に俺は気にしてないから…雨がやむまでいればいい」
 そして楡先はそう言ったっきりただ黙りこんだ。
 遠くに雷鳴が聞こえていた。時折光る稲妻が、楡先の顔を照らした。そのまま楡先は黙っていた。
 静かな男、優しい男だ、と思った。
 それから友人のようなつきあいが始まった。
 余計なことをひとつも口にしない楡先の生活は、彼の言葉と同じく、実に質素なものだった。女遊びをするわけでもなく、巡査部長として刑事部屋に配属になったばかりだという楡先は、一年のほとんどをひたすら捜査だけに費やしていた。狭い部屋にベッドがひとつとソファがひとつ。小さなテレビがひとつ。事務机がひとつ。その上に警部補の昇進試験のための書籍がぱらぱらと重ねられていた。クローゼットの中に、高くはないが趣味のよい洋服が少し、それからニコンの古い一眼レフカメラが置いてあるだけだった。
 今までの人生で日高が付き合ってきた相手は、みな年上で遊び慣れていた。それなりに地位があり、金もあった。そのくらいで丁度よいと思っていた。だから、楡先のようにまっすぐに生きている若者を見たのは久しぶりで、新鮮だった。
「殉職した親父に憧れた、それだけですよ」
 そう刑事になった理由を聞かせてくれたときの、楡先のまっすぐな瞳が貴重に思えたのは、日高が弁護士になった理由が不純だったからだ。
父親が早世したために日高の母親は夜の街で働くしかなかった。金が、力が欲しかった。母親譲りの細い身体をもって生まれた日高は、頭脳労働で稼ぐしかないと早くから見切っていた。誰よりも勉強し、奨学金を得て大学へ行き、独学で司法試験にも合格した。大手の渉外事務所にも就職を決めた。金も、権力もほしいままとなったが、実家に家を建ててやり、弟や妹の学費も肩代わりしたところで母があっけなく死んだ。生きる目的を無くしかけていたとき、独立を考えている、という同じ事務所の主要スタッフである沢木からの引き抜きの話が出たのだった。「沢木のようなカリスマがなぜ自分のような人間を?」と思ったが、「お前のその緻密な論理構成。そして刃物のように切れる頭脳は、俺にはない。お前が欲しい――」と、自信に満ちあふれた声で優秀すぎる男からそう乞われれば、断る理由が見つからなかった。
 尊敬できる上司、やりがいのある仕事。日高の日常は再び動き出した。そういう意味では沢木は恩人だった。
 一方で、満たされない身体を埋めるように、繰り返し続けた情交。そんな日高が久しぶりに築いた友情が楡先との関係だった。それがじきに恋心に変化したとき、楡先への裏切り行為だと、日高は悶えた。だが限界はすぐに訪れた。
 思いを遂げれば恐らく二度と会うことは適わないだろう、と覚悟した日高は、非番の日、そっとソファに横になっている楡先の唇にキスをした。決別のキスだった。
 だが唇を離したとき、思いがけず強い視線が日高を捉えた。
 黒いつり目がちの目がすっと下から日高の目を見据えてくる。ああ、初めて会ったときの黒い目だ。魅入られて惹かれて愛さずにはいられなかったこの目。
「――アンタ、本気?」
 鋭すぎる視線に、さあ嘲ってくれ、殴ってくれ、と身構えた瞬間、日高の細い体は楡先の腕の中に抱きとめられていた。
「…っに、楡先?」
 楡先の黒い目が、そのまま日高の目を見ている。
 ひゅうと荒い呼吸をした楡先の口元が、少し歪み、そしてこう言った。
「――あんたの目が、好きだ、初めて会ったときから」
 予想外の展開に、喉からうまく声が出ない。五秒ほど日高はそのまま固まっていたが、「な、何を言う…あのとき、お前は冷たい目で俺を見ていたじゃないか」とようやく呟いた。
 そうだ、あの探るような、刑事の目。投げかけられた強い視線は、ぞっとするほど恐ろしく、そして魅惑的だった。
「それは…あんたが気になっていただけだ」
 それを聞いた日高の心の奥底の炎の火が、ひとつ、またひとつと爆発し始める。
 日高は思わず声を荒げていた。
「嘘だ!ふざけるのもいい加減にしてくれ、――俺がさっきお前にしたことは、悪いと思っている。だが…お前にからかわれるのだけはご免だ…からかうくらいなら、罵ってくれたほうがましだ!!」
 受け入れがたい感情を投げかけたのは自分なのだから、反発されても軽蔑されても仕方がないと思う。だが、この胸をかきむしられるような愛情。その対象である人間から同情されるほど情けないことはない。ああ、炎で、心が焼き切れそうだ。
 するといきなり楡先の短く刈った頭が近づいてきて、そして日高の唇を奪った。熱い唇だった。
「ん、う…っ…」
 なんなのだ、これは。俺は頭がおかしくなったのか?これは一体どういうことだ…。
 唇を離すと、楡先は大きく肩で息を吐き、呆然としている日高の肩に手をかけ、じっと瞳を覗き込んできた。
「日高さん――あんたのその目に、俺を映したいと、そう思ったんだ」
「…やめてくれ。もうこれ以上俺をからかわないでくれっ……」
 日高は肩を震わせた。最後はもはや声にならなかった。
 すると楡先は日高を強くかき抱くと、再び唇を奪った。
「ちゃんと聞いてくれ、日高さん。
 ――あんたは氷なんかじゃない。人一倍激しい情熱が潜んでいる。俺は、あんたのその目に惚れたんだ―――」

 あのときの楡先が一体何を考えていたのか。未だに日高には理解しがたいものがあった。若い男の気まぐれだったのか。自分に恋をした哀れな男にヘテロの男が同情していただけなのか…?なんにせよ、二人はひとつの布団で寝る関係に変化したことだけは確かだ。
 
あれから三年。
 互いに忙しく、年に何回も会えるわけでもない。だが会えば狂ったように楡先は日高を求めてきた。もはや身体だけの関係といってもおかしくはなかった。
(楡先は、俺を何だと思っているのだろう)
 ただでさえ言葉少なな楡先の本心を慮るのは至難の業だった。
 楡先は相変わらず黙ってハンドルを握っている。
 車はだんだんと細い道へ入りこみ、緩やかなカーブから徐々に急勾配の山道へと変わった。
 一体俺達は、どこへ行くのだろう。
(何もかも分らない)と日高は思う。
ラジオから流れる切ないジャズギターの音が耳を満たした。
 まだ身体の奥底に、真夜中の楡先がいるような、そんな甘い痺れを感じながら、日高は少しだけ目を閉じた。

 土曜日の深夜。
 突然鳴ったチャイムに、慌ててドアを開けると、暗闇の中に、楡先が立っていた。
「遅くにすまん」
「それはいいんだが…お前、顔色が悪いぞ」
 よれたシャツとスラックス。何日も家に帰っていないことは一目瞭然だった。
「夜勤明けなだけだ。日曜、やっと非番になったから…」
 そういえば明日は日曜だったか、とパジャマ姿のまま日高は考えた。ここのところ日高のほうも曜日の感覚がなくなりつつある忙しさだった。
「とりあえず、寝ろ、ほら、ベッドに」
 楡先は街中の道という道を駆けずり回ってきたといわんばかりにすり減った靴を脱ぎ捨てると、いきなり日高に覆いかぶさってきた。
「…っに、楡先、重い…っ」
「すまん、渇いているんだ」
 渇いているのは心なのか、それとも身体なのか…?抵抗しても、楡先は動きを止めようとはしなかった。
 玄関先の廊下の壁に圧倒的な力で押し付けられ、両腕を掴まれた格好で荒々しく唇を押し付けられた。
「…っふっ…っ」
 こじあけるように舌が入り込んできて、喉の近くまでかき回された。伸びかけた楡先の髭がざらり、と日高のほおを撫でた。野生じみた行為に生理的な畏怖を感じると同時に、己が激しく欲情するのを感じ、日高は震えた。武道で鍛え上げられた楡先の日焼けした左腕が、すっとパジャマの下に入り込み、ゆっくりと胸の突起を撫でこすりはじめた。
「…や、やめ…っ、お前夜勤明けなんだろっ…おとなしく休めっ…」
「飢えてるんだ…一秒でも早く、あんたが欲しい」
 低く掠れた声が媚薬のように鼓膜を犯していく。そして楡先は左手で日高のズボンとトランクスを足首まで引き下げた。すうっと真夜中の冷気が素肌を刺す。ぞくり、と劣情が刺激される。右手で中心のもののくびれを引っかくように愛撫され、電流のような快感が走り抜ける。
「ひっ」
「声、もっと聞かせろ、あんたの声…聞くの、二ヶ月ぶりだ」
「二ヶ月ぶりに会って、お前、いきなりこんな…っ。お前、ほかに何か言うことはないのか?!」
 右脚を高く抱え上げられると、なにもかも楡先の目の前に晒されてしまう。楡先はうかされたような目でじっと日高を見つめている。羞恥でどうにかなってしまいそうだった。
「あんたが欲しかったんだ…」
 切なげなため息。
「あっ…」
 ごつごつとした指が日高の濡れた先端から会陰をとおり、そしてやがて後ろへと到達する。そして幾度か往復したあと、ぐいと入り口をこじあけて入ってきた。
「う…やめ、やめろ楡先」
「あんたのここに、入りたい」
「馬鹿…野郎っ」
 普段は無駄口ひとつ叩かない男が、艶めいた声で、下卑た言葉をさらりと口にするのは、ずるい所業だ。
 多分楡先は大きなホシを追っているのに違いないと日高は失われつつある理性の中で考えた。現場の刑事の仕事がどのようなものか、弁護士の日高にはわからない部分も多かったが、ストイックに獲物を追うことだけに異様なほどの情熱を傾けているこの楡先は、ストイックになればなるほど欲望が募っていくように思えた。楡先は、指を引き抜くと日高を突き上げた。
「あ、はあっ…に楡先っ…」
 食いちぎりそうなほど猛った楡先のものが、日高の腹の底にすっぽりとおさまると、生きているように蠢いているように感じた。
「このままアンタを端から食っちまいたい…」
 本当に食われそうだと思っていると、激しく楡先が動き始めた。もはや片足で立っているのさえおぼつかない。
「に、楡先…俺…っ」
「まだいくな」
 ぎゅうと前をきつく戒められる。
「む、無理…っ楡先っも…う」
 楡先は精悍なその顔に、少しだけ笑みを浮かべた。
「――仕方ない」
 そう言うと楡先は倒れそうになっている日高を抱え上げ、そして床に横たえた。
 両脚を大きく広げると、激しく突きたてた。
「く、はああっ」
 あっけなく陥落してしまう自分が日高は呪わしかった。しかし、もうそんなことはどうでもいい。今は襲ってくる焼け焦げそうな快感だけが日高を支配していた。所詮雄の欲望など、そのようなものだ。
「い、いくっ…っはああっ」
 どくどく、と熱い液体が激しく飛びちった。何もかも外へと吐き出すだけ。後はもうどうでもよかった。
 嵐のような行為が終わった後、楡先はそのままばたり、と廊下に倒れ込み、眠り込んでしまった。流石に体力の限界がきていたのだろう。
 ぐったりと手足を伸ばし寝息を立て始めた楡先の締まった腹筋に日高は指を添わせた。
 とくとく、という力強い鼓動が、指先に響いた。ひとつの生命の響きがそこにはあった。
(楡先…)
 身体を離したあとの深い穴に落ちていくような空虚感。理由もなく涙がこみ上げてきた。
 確かに生きているのに。身体の何処も彼処もお前の匂いが、感触が残っているのに。
 まるで心がちぎれそうだ、と日高は思う。
 目の前の男に阿呆のように恋焦がれている自分に愕然とし、そして襲ってくる圧倒的な恐怖。
 ああ、俺は、お前が怖いよ、楡先、お前の心は何処にあるんだ――。
 そうだ、「永遠」なんてこの世にあるはずもない。そんなことはとうの昔に分かっていたじゃあないか。
 お前は俺の前からいつか去っていくに違いない。
 普通の世界へ戻って、人並みの幸せを手に入れる、それはお前が選ぶことのできる道だ。
 これ以上深みにはまって、手遅れになる前に。
 いっそこの手を自分から離してしまえば…。
 ――今ならまだ、間に合う、きっと間に合う――。


 車は走り続け、細い道をのぼり、やがて頂上近くへ着くと、楡先はエンジンを切った。
「着いた」
 すたすたと歩いていく楡先を追いかける。高台の行き止まりにある柵に手をかけ、向こう側を向いたまま楡先は立っていた。
 シャツが風に少しだけなびいた。日高がその広い背中に近づくと、楡先は振り返り、見てみろよとばかり、顎で柵の向こうを指し示した。
「わあ……」
 眼下に広がる光の渦が、目に飛び込んできて、思わず日高は声をあげていた。
 一面に広がるネオンがきらめく都会のビル群。そしてその向こうに見える黒い海。その海には漁船の淡い光がいくつか浮かび、海岸に面した高速道路の高架橋が見え、その上を走る車のヘッドライトがちかちかと幾重も重なり点滅して連なっていた。
「――この街に、こんな場所があったのか…」
「捜査中に通りかかった。蛍は季節はずれだから…かわりになるか分からんが」
「蛍…?」
「あんた、見たいって言っていただろう、この前」
「あ…」
 2ヶ月前、ベッドの上で、日高は楡先に故郷の話をした。
 幼い頃、父親に連れられて行った故郷の川縁。『蛍の光は求愛の印。命がけの恋の火だ』と言ったのは死んだ父だった。もう一度、見たいものだと、木崎は楡先に呟いたのだった。命を落とすほどの恋の火に、いっそこの身を焦がして死んでしまえたら幸せだろうか、そんな夢想に囚われていた。そんな戯言を、まさかこの男が覚えていたとは。
 煙草を吹かしている楡先の横顔を日高は見つめた。
 そしてまた果てしなく広がる夜の光に目を戻した。明日になれば、楡先はこの街をホシを追うため血を吐くようにして駆けずり回り、そして日高には法律という武器だけを片手に、海千山千ひしめく泥のような俗世界へ足を踏み入れるのだ。
 しかし、――腐りきったこの街も、こうやってみるとまだ捨てたものではない。
 喜び、怒り、愛情、憎しみ、さまざまな色の光がひとつ、またひとつ、この街の中で飛び立っては消え、飛び立っては消えていく。
「……今度は」
 日高は口を開いていた。
「本物を見にいこう……何もない田舎でも良ければ、だが」
 楡先の目が少しだけ細められる。
「ああ、構わんさ。あんたの故郷、見てみたい…」
「ああ、本物の蛍を眺めよう」
「――愛している」
 楡先の低い声が響いた。
「あんたさえいれば、俺は…」
 照れたような、拗ねたような楡先の顔が、そこにあった。
 じじ、と煙草が燃える音がする。
 楡先の目は、深く澄み、そして穏やかだった。敢えて棘の道を生きようとしている男の目にあるものは、確固とした強さだった。
「なあ、楡先、俺の目には、今、お前の姿が映りこんでいるのか?」
「ああ、どうしようもない刑事が、ひとり、あんたの綺麗な目に映ってる」
「そうか。お前の目にも、どうしようもない男がひとり、映っているぞ」
 ハハっと二人して笑った。

 日高は目を閉じた。
 光の残像が、瞼の裏でまたたいた。
 不器用だな、俺も、お前も。
 一度きりの命の光。
 お前のために生きるのも、いい。
「俺も愛している、お前を。焦がれるほど――」
                               了
 
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(初稿2008、改訂版を同人誌に掲載済)
刑事が書きたくて書きたくてたまらなかったころのメモ。
無口で無器用なな人が燃える姿にどきどきしてしまいます。
出会いなども書いてみたい。
モクジ
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