ファミリー

モクジ
 散々凝視し続けて電磁波にやられた目の奥がじんじんと痛んだ。思わず眉間に手をやり、3秒ほど目をつぶった。
 高層オフィスビル35階のこのフロアにはもう誰も残っておらず、かすかな音ひとつしない。がらんとした室内に取り残されているのはいつものことだったが、それにしてもこの静けさはちょっと凄いものがある。普段なら同じ階のフロアに誰かひとりくらいは残っていて、パソコンを打つ音とか話し声とか、そういう人間の気配はなにかしら感じられるものだ。それが今夜はまだ午前0時を回っていないというのに、闇夜のように静まりかえっている。
 わたしは閉じていた目を開け、ひとつのびをすると、窓の方へ近寄り、外界を見おろした。なるほど、これはオフィスが闇夜な訳だ、とわたしはすぐに納得した。
 道沿いに植えられた木々に無数の青色の電飾がともり、道の向こう側の店舗群を見やると、こちらは赤や黄色の光の海だ。足が竦みそうなくらいの高さのこのフロアからはかろうじて黒く丸い人間の頭が歩道を動いているのが見えるのだが、今日はそれも仲良く二つならんで、おそらく腕でも組んでいるのだろう。そうだ、日本ではクリスマスイブは恋人同志が甘い一夜を過ごす日ということになっているのだということを、すっかり忘れていた。
 わたしは尻のポケットにつっこんでいたパスケースを取り出すと、挟んであった家族の写真に目をやった。自分と同じ灰色の目をした父と漆黒の髪をした母と、それから歳の離れた弟と妹とが並んでにっこりと笑っている。先週、習慣のようにクリスマスカードは送ったが、忙しさにかまけて電話すらしなかったことに、今更ながら後悔を覚えた。
 遠く離れた母国にいる家族にしばらくのあいだ想いを馳せていたが、そういえばあいつは生粋の日本人だったか、と当たり前のことを突然思いだした。クリスチャンでもない日本人たちの妙なこのお祭り騒ぎには全くをもってなじめないが、あいつはまぎれもなくこの国の人間で、このお祭り騒ぎに慣れ親しんできたに違いないのだ。
 そこまで考えると今の今までクリスマスイブであることなんてすっかり忘れていたというのに無性に腹が立ってきた。浮き足立っているこの国民のまねがしたいわけではないが、仮にもあいつとは数ヶ月前から恋人同士という関係になってしまった以上、何らかのコンタクトがあってよいものを、一言の連絡もよこさないというのはどういうことだ。いくら師走で忙しいとは言えメールとか電話とか現代にはいろんな通信手段があるだろうに!
(――馬鹿馬鹿しい)
 家族に連絡をしなかった自分を棚に上げて、ひとり憤慨している自分が滑稽で、ふいに恥ずかしくなったわたしは、これ以上考えることをやめた。
(もう帰るとしよう)
 仕事を続ける気をそがれ、パソコンの電源を落とし、フロアに鍵を掛け、電気を消し部屋を後にした。わたしはコートを羽織ると、非常口を示す緑色の光だけがひっそりと輝く闇の中を、エレベーターホールへと向かった。1階のボタンを押し、わたしはぼんやりとエレベーターの数字の点滅を眺めた。
 1、2、3…。自分の目の前にある4台のうち、1台が高速で昇ってくる。
(おや?)
 後ろ側の1台が突然ぐいん、と音を立てたのだ。見ればこちらも高速で昇ってくる。誰だろう、と訝しがっていると、待っていたエレベーターのドアが開いた。
 うつむき加減で乗り込み、まわれ右をしてクローズのボタンを押そうとしたとき、向こう側のエレベーターの扉が勢いよく開いた。すると、鉄砲玉のように中から黒い固まりが飛び出してきた。
「…ちょ、ちょっと待って!!」
 男はそう叫びながら閉まりかけているこちらのドアに自分の黒いコートの肩を滑り込ませた。それと同時にドアががしゃん、と完全に閉まった。男は膝に手をおくと、折った背中でぜえぜえと荒い息をついた。しばらくしてゆらり、と男が長身の身体を起こすと、はらり、と漆黒の前髪が額に落ちた。一重まぶたの中のこれまた漆黒の瞳がこっちを恨めしそうに見つめている。
「嶋田?!どうしてここにお前がいる」
「…それはこっちの台詞ですよ。今日はマンションにいるかと思ったのに」
 息を整えなががら、嶋田は答えた。高い鼻の先が赤く染まっている。
「お前、俺の家に行ったのか?どうして?」
「どうして、って…。チャイムを押しても誰も出ないし」
「俺が深夜に会社にいることなんていつものことだろうが。だいたい今日は平日だぞ」
 すると嶋田は低い声を更に低くしてこう言った。
「まったくあなたって人は。……酷いな。今日はクリスマスイブですよ?」
「……酷いのはどっちだ。連絡ひとつよこさなかったのはお前だろう?」
「だって、あなたは携帯をいつも切っているから…」
「あ」
 そうだった。
 オフィスにいるときは携帯電話の電源を切っておくのが習慣になっていたのだ。
「…だ、だいたいな、クリスマスイブなんてクリスチャンは家族と教会に行って過ごす日なんだ」
「だから、ですよ」
「え?」
 がちゃん、とエレベーターが止まる音がした。「ちん」というチャイム音とともに1階の扉が開いた。
「?!」
 嶋田の右手が素早くクローズのボタンを押した。扉が再び閉まる。それと同時に左手が私の顎先に延ばされ、くちびるが重ねられた。
(冷たい…)
 ひんやりとした感触が粘膜から伝わる。随分外を歩き回ってきたのだろう。
 ボタンを押し、くちびるを合わせたまま身体を寄せてくる嶋田にわたしは壁に押しやられてしまった。やがてぴったりと身体が合わさると、わたしが顔を埋める格好になった嶋田の黒いコートは少しだけ濡れていることに気づいた。
「…雪、降っていたのか?」
「ええ。少しだけ」
「そうか…」
 気恥ずかしくてつい言葉少なになってしまう。
しんと静まりかえったエレベータの室内で、ただ二人、じっと抱きあったまま立ち尽くしていると、心臓の音までもが響いてしまいそうだ。
 やがて嶋田はわたしを抱きしめたまま口を開いた。
「……ねえ。聞いてくれますか?」
「なんだ…?」
「……僕は日本人だけど、このお祭り騒ぎがしたくてあなたに会いたかったわけじゃないんですよ。クリスチャンのあなたにとってクリスマスがどういうものかってことくらい、僕だって知っているつもりです」
「じゃあ、なんなんだ…」
「僕は、あなたの家族ではないけれど、この国では一番あなたの家族に近いんじゃないのかなって…。これは、僕の自惚れだったんでしょうか」
「嶋田…」
 そこまで話すと嶋田は私から身体を離すと、クローズのボタンから手を離し、もう一つのボタンを押した。
 ちん、と音がしてエレベーターの扉が開く。
 嶋田はすたすたと夜間通用口を目指して歩いていく。するとガラスの中から顔なじみの警備員が明るく声を掛けてきた。
「おやあ、さっき駆け込んできた兄ちゃんじゃないか。もう用事はすんだのかい?おや、灰色の目のダンナもご一緒ですか。それにしてもこんな遅くまでお疲れさんだねえ」
 それに嶋田が答える。
「おやじさん、こんな日に当直だなんてお子さんが怒ってるんじゃない?」
「なあに。息子の枕元にプレゼントを置けるくらいの時間には帰れるはずだからさ。俺がサンタになる時間くらいはあるんだ」
「そりゃあよかった」
「へへっ。もういい時間だ。兄ちゃん達、気をつけて帰りなよ」
「おやじさんもね」

 嬉しそうな警備員に見送られ、わたしと嶋田は通用口から外に出た。
 降り始めた雪がはらはらと舞い散っていた。
「――さっきのおやじさん、すごく嬉しそうだったな」
「サンタ役は男親の醍醐味のひとつなんじゃないでしょうかね」
「不思議な国だな、日本は」
「そう言われれば、そうなのかも知れませんね」
 おやじさんの幸福そうな笑顔をわたしは反芻した。
「……この国では人間が幸せになれるなら神でも仏でもサンタでも、なんでもいいっていうことか」
「え?」
 わたしは雪の降る夜空を見上げながら呟いた。
「――わたしはな、嶋田。多分、クリスマスなんてどうでもよかったんだ」
「でも、さっきあなたは自分がクリスチャンだと言ったばかりじゃありませんか」
「ああ、そうだな。でも、もうこんな時間だ。教会の礼拝も終わっている。でも…」
 わたしは目線を嶋田に戻して続けた。
「お前はわたしにとって家族以上の存在だと、そう思っているぞ」
 ――ふと、嶋田の靴音が止まる。
「……一体どうしちゃったんですか?」
 普段こんなことを真顔で言うことはないから、嶋田のこの驚きようは、当然の反応だろう。
 俺はそっと嶋田の手を取り、そして呟いた。
「……お前が居てくれればそれでいいと、そう思っている。……わたしはそんなだめなクリスチャンだ…」
「ええと、本当にどうしちゃったんですか?あなたがそんなことを言うなんて……でも」
 嶋田は破顔して続けた。
「どうしよう、すごく嬉しい……。最高のクリスマスプレゼントです」
 わたしは幸せそうな笑みを浮かべる嶋田を見た。
 お祭り騒ぎだってなんだっていいか、こいつが嬉しそうに笑ってくれるなら。
「寒い中歩かせてすまなかった。これからは携帯、気を付けるから…」
「ああもう、そんなこともうどうでもいいです。早く、帰りましょう、早くあなたに触れたい」
 嶋田の声が踊る。
 ああ、帰ろう。この国のわたしの家に。この国で見つけたわたしの「家族以上の人間」とともに。
 降る雪の中、白い息を吐きながらタクシーを拾う嶋田の背中を眺めながら、わたしは切っていた携帯電話の電源をようやく入れた。
                
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もうすぐクリスマスってことで久しぶりにネタ(?)を一本。一応日本人とハーフってことで。
日本人って行事に踊らされる国民だよな〜と思う日のひとつがクリスマスイブとクリスマス。終わったあと、デパートなんかの飾り付けが一気になくなって門松やらにとって変わる様はなかなか滑稽というか見物というか。
わたしはクリスチャンではないですが、ただ単に教会に行くのは好きです。心が澄み渡る気持ちがします。一緒に過ごす家族やら恋人やらがいる人もいない人も、幸せな一日になりますように。結局踊らされようがなんだろうがその人が幸せならそれでいいような気がします。そんなお気楽人種な日本人。(2008/12/21)
モクジ
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