無精髭(蛍・番外編)

モクジ
「なにが大したことない、だ」
 日高は男の身体から体温計を引き抜きながら悪態を付いた。
 この男、楡先は、昨晩遅く日高の家に転がり込んできたと思うと、ワイシャツとスラックスのままばたり、とソファに倒れこんだのだった。一目みて、発熱していると分かったが、処置をするのは、泥のように眠り込んでしまった楡先が目を覚ましてからだ、と日高は判断した。
 そして一晩明けて今に至るのだが…。
「38.8度…!いい加減にしろよ」
「こんなの、たいしたことない。ほら、今日非番だし」
 顔は赤く上気し、体温計を引き抜きながら触れた体温は燃えるように熱かった。
 刑事という職業柄、少々の熱くらいで仕事を休めないことくらい弁護士を生業としている日高にも分かっている。おそらく連日連夜の捜査で眠ることすらできなかったのだろう。
「いいから、黙って寝ていろ、何か作ってきてやるから」
「いや、いい」
「お前、何か食わないと体力回復しないだろう」
「――いいから、ここにいろ」
 低く呟く楡先の声に日高はどきり、とする。
 赤く上気した頬や身体。熱で潤んだ瞳。はだけたシャツの隙間から覗く均整のとれた胸が呼吸とともに上下している。しかも病人のくせにいやに野生じみて見えるのはどうしてなのか。
「せっかくあんたと一緒にいるのに」
「ば、馬鹿野郎、風邪うつされたくないぞ、俺は」
「風邪じゃないさ。たまに熱を出すのは子供のころからだ」
「どっちにしろ病人には代わりはないだろう?」
「いいから。――こいよ」
 腕の中に引き込まれたと思うと、熱い唇が日高の唇を覆った。
 明らかに自分より高い温度を持つ頬が日高の頬に触れると、ざらり、とした感触が日高の頬を襲った。
 髭。さっきから何が普通とは違う感じがしていたのは、この髭のせいだったのか、と日高は思い至る。連日連夜の捜査中でも、警察署できちんと髭をそっているようだったから、今回は髭をそる時間や気力すらなくなっていたということだ。
「その髭…」
 顔を離すと日高は楡先に言った。
「すまん、痛かったか?」
「なんだかいつもと違うから…その…」
 精悍な二枚目の容姿の楡先に無精髭が加わると、妙な男の色気が感じられて、日高は落ち着かなかった。いや、愛している男の容姿に、しかも病人の男の顔にどきり、としてしまう自分が恥ずかしかった。
 すると楡先は見透かしたように、にやりと笑う。
「違う人間みたいで、欲情する、とか?」
「ば、馬鹿野郎!!」
 見透かされてかっとなる。楡先の手から逃れようとすると、逆に楡先に押し倒され、組み敷かれてしまった。見下ろされる格好になって血が上る。
 まるで獣が、自分を虎視眈々と狙っている、そんな言葉が日高の脳裏に浮かんだ。
「…ふうん、あんたがそんなに反応してくれるんなら、たまには伸ばすのもいいかもな」
「そんなの…っ」
 反論する暇もなく、目の前の獣に身包み剥がれ、舐められ吸われ、奪われていく。
「愛してる…」
 呟きながら男が唇を寄せるたび、触れるざらりとしたまばらな髭の感触がぞわぞわと劣情を呼びさましていく。楡先は噛み付くように歯を首筋に立ててきた。目が眩みそうな快感の渦に巻き込まれながら、日高は必死に楡先にしがみつく。ああ、もういっそ俺を丸ごとこのまま喰らってくれ。愛する人間に喰らわれるならば、本望だ――。
 
 翌日、楡先は何事もなかったように現場に向かった。
 日高は、事務所のボスに首筋の咬み跡を発見され、盛大に揶揄されることになった。
 「――犬に咬まれただけです」
 言い訳をする日高にボスはただにやにやと笑っていた。
 やっぱり髭はもういい、と日高は思った。                                             ・・・・・・・・・・・・・・・・・
(初稿2009年)
モクジ
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