10Years
葛西は大通りに出て手を挙げた。
昨日はひどい熱で仕事を休んでしまった。山のように積まれた仕事はなかなか終わらなかった。
モニターの見過ぎでちかちかする目をこすっていると、ややあって黄色のタクシー一台が目の前に滑り込んできた。
どちらまで?と問う運転手に行き先を告げる。
運転手は笑顔でうなずいてハンドルを握った。
今時珍しく制服に帽子をきっちりとかぶっている。レトロ趣味なんだろうか。そういえばこの車、どことなく懐かしい作りをしている。
「こんな時間までお仕事ですかい?」
のんびりとした調子で訊ねてきた。
「ええ」
葛西が答えると、運転手は言った。
「大変だねえ、お兄さん、こんな日に」
「え?」
「今日は十二月二十四日、クリスマスイブですよ。おやおや、もう日付が変わったから二十五日、クリスマスですな」
「…ああ、そうか」
すると運転手はかかか、と声を出して笑った。
「大事な人が泣いてるんじゃないのかい?」
「…残念ながら独り身ですし」
熱と仕事でクリスマスイブどころの話ではなかったのだ。
「そうかい?でも会いたかった人はいるんじゃないのかい?」
「え?」
会いたい人間…。
「隠したって無駄だよ。お兄さんがこの車に乗ってきたってことは、つまりそういうことなんだから」
「――仰っている意味が全然分かりませんが…」
この運転手。どこかおかしいんじゃないのかと葛西は訝しがった。
「そう怪しまなくってもいいですよお兄さん」
「……」
十分怪しい。バックミラーに映る運転手の顔を覗き込むと、運転手も葛西を見た。そして鏡越しににんまりと笑った。
「お兄さん、ちっとばかり飛ばすよ」
「ええ?」
「よくつかまっておいてくださいね」
「ちょ、ちょっと待って……わあああっ」
運転手が勢いよくアクセルを踏み込むと、ものすごい重力が葛西の身体を襲った。
窓を流れていく光の線。
あり得ないスピードに目がくらむ。
必死でシートにしがみつく。
「……お兄さん着きましたよ」
声で身体を起こす。
ドアがぱたり、と内側から開いた。
「御代はいりませんぜ。じゃあまた後で」
運転手は帽子をひょい、と頭の上にかかげると、それを合図にタクシーはみるみるうちに消えてしまった。
「……?」
呆然として葛西は鞄ひとつで道ばたに立ち尽くした。
(ここは何処だろう)
きょろきょろと辺りを見回す。
目の前には一面に広がる野原。
どこか懐かしい光景だった。
「かさい!」
呼ばれて振り返る。
「どうしたんだよお前、そんな格好して」
見れば大学生くらいの青年が笑っていた。紺色のダッフルコートにクリーム色のマフラーをぐるぐるまきにしている。
「――ええと、会社帰り」
「はあ?なに言ってるんだよ。お前、頭、大丈夫?」
青年は思いきりしかめ面をする。
「それよりさ、かさい、早くしないと、雪、一番のりできないぞ。」
「雪…?」
ここ数年暖冬続きで都会の街に積雪することなんてなかったはずなのに。
「ほら早くしろよ」
青年に手を引かれるまま、葛西は走り出した。
野原を通り抜け、丘を登る。どこかで見た光景。そうか、俺は夢を見ているんだな。そうだ、これはもう何年も帰っていない、懐かしい故郷の光景だ。
「わあ」
丘の上は銀世界だった。
誰の手にもまだ汚されていない真っ白な雪に思わずため息が出た。
「かさい、ほらいくぞ!せえの!」
「ちょ、ちょっと……っ」
青年は葛西の手を握り、雪に背を向けるとばたり、と仰向けに倒れ込んだ。
「つ、つめた……っ」
ワイシャツの隙間から、雪が容赦なく入り込んでくる。
「おお、気分いいなあ〜一番乗りだぜ」
青年が楽しそうに言う。
真っ白な雪の中、大きな穴ぼこが二つ。 青年のものと葛西のものと。
しんと静まりかえった真っ白な世界。
葛西は大きく広がる青い空を見上げた。
地平線まで見えてしまいそうなくらい、広い広い空が広がっていた。
ふと青年の方を見ると、青年も葛西のほうを見ると歯を見せて笑った。
「かさい、十年経ったらさ」
しばらくして青年が思い切ったように口を開いた。
「え?」
「十年経って、もしも、もしも、だ。お前がひとりだったら、俺はお前をかっさらいに行く」
「え?」
「そんな顔をするな。もしもお前がひとりだったら、の話だ。だからそれまでに早く結婚して子供の二、三人つくっておくんだぞ、いいな」
言い終わると、青年は立ち上がり、ぱんぱんと雪を払い、ははは、と笑ってまだ倒れている葛西を見おろした。
その瞬間強い風が舞い起こり、葛西の視界は真っ白になった。
雪が舞い、風が吹き抜け、ごうごうと音を立てる。
葛西の意識は混濁した。
「……さん」
「?」
「お客さん」
気づけば革張りのシートに横になっていた。
「ええと……」
「さあて、どこに行きますか?」
帽子をかぶった運転手が面白そうに訊ねてくる。
「……どこって」
麻痺している感覚のまま葛西は運転手の方を見た。
すると運転手が言った。
「会いたかった人、思い出しました?」
「………」
「じゃあそこに行きましょう」
どうにでもなれ、と葛西は身を任せた。
長い夢の続きに違いないと、そう思った。
「はい、着きましたよ」
「ここは…俺の会社の前じゃないか」
ついさっき、ここを出て、このタクシーを拾ったのだ。
「ええ、ここにいるはずです。素直になるのも悪くないですぜ。今日くらい、ね。それではわたしはこれで」
運転手は帽子をひょいとかかげ、黄色いタクシーは遠く彼方へ走り去った。
あっけにとられて玄関に立っていると、「葛西」と背後から声がした。
見れば同僚の安藤が不思議そうな顔をして立っていた。
「何だよ葛西?今頃帰りか?」
「……あ、ああ、なあ安藤、今日は何日だ?」
「お前大丈夫?あと数分でクリスマスイブじゃないか」
じゃあ今はまだ十二月二十三日なのか?確か、俺は会社を熱で休んだんじゃなかったっけ。それよりどうして俺はここにいるんだろう?
考えていると安藤が訊ねた。
「なあ、葛西。お前クリスマスイブの予定はないのかよ」
「……ない。仕事」
独り者だと知っているくせに、不躾な質問だ。
すると安藤は「へえ」と呟き葛西に言った。
「……じゃあさ、俺のうちに来いよ」
「お前のうちに?」
「言っただろう?俺がお前をかっさらってやる」
安藤の手が強引に葛西の手を掴んだ。甘い痺れが唇に舞い降りてくる。そうか、俺はこの男が欲しかったのだな――。
夜風が吹き抜ける。
雪の中、安藤と見上げた青空を葛西は思いだしていた。
おわり
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(初稿2008年。改稿分を同人誌収録済)
クリスマスをテーマに描いたもの。
忙しい人に乾杯
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